入賞作品の発表

第37回 「香・大賞」

銀賞
『 幸せベーカリー 』
安部 瞳(あべ ひとみ)
  • 45歳
  • 大阪府

 仕事の帰り道。町中に漂うパンの香りが、私の鼻をついた。私にとっては長年、切なさを運んできた香りである。
 小学生の頃、経済的に大変だった我が家の食卓を支えたのが、パン屋からもらう「パンの耳」。食事や、おやつとなった食材である。その調達を母から命じられると、幼い私は憂鬱な気分で、近所のパン屋へと向かう。ガラス張りの店内をうかがい、同級生がいないことを確認して突入である。
「いらっしゃい」
すぐに、おじさんの柔らかい声が飛ぶ。パンを選んでいる風に店内を一巡。勿論、お金など持ってはいない。すると、おじさんが
「いつもの、持っていってくれへんか?」
と言いながら、手早くパンの耳を大量に袋に詰めてくれるのだ。その間、数十秒。私には、とてつもなく長く、切ない時間だった。お礼を言い、店を出る私の背中に、おじさんは決まってこう言った。
「いつもありがとうなぁ」
大人のお客さんと同じ言葉をくれるおじさんに、つくった笑顔しか返せないことが申し訳なかった。こんな風景が心に染み付いた私は、大人になっても皆が不思議がるほど、パン屋に足を向けることはなかった。
 そんな私が、長い独身生活を経て結婚。穏やかな日常を得て、夫と町中を歩いていた時のこと。ふいに焼きたてのパンの香りが私達を包んだ。
「わぁ、幸せになる匂いやなぁ」
思わず夫に語りかけた直後、自分に驚いた。いつも、この香りと共に運ばれてきた切なさが、そこになかったからだ。日々の暮らしを重ねる中で「幸せの分量」が「切なさの分量」を超えたことを、パンの香りが教えてくれた。
 ちなみに、あのパン屋さんは、今は、もうない。一度でいいから、店中のパンを買って、おじさんに少しでも恩返しがしたかった。けれど、私がどれだけ沢山のパンを買おうと、おじさんは、あの頃と変わらず、こう言っただろう。「いつもありがとうなぁ」と。