入賞作品の発表

第37回 「香・大賞」

銅賞
『 恋の一つも楽しんで 』
野尻 敏夫(のじり としお)
  • 86歳
  • 栃木県

 コーヒーを一口飲んで気がついた、86歳の誕生日。母がお浄土へ旅立った歳だ。仏壇に「お陰様で元気だよ」と手を合わせた。2人でコーヒーを飲んだ遠い日を思い出す。
 電気通信学園を卒業して仕事に就くと、生まれて初めて飲食店に連れて行ってくれた。終戦から7年、田舎ではまだ珍しかったコーヒー。祝杯のつもりでオーダーしたのかも。
 初めて嗅いだ香ばしさは思いのほか濃く、贅沢な印象が残っている。ところが味わいは渋味が強くて、とまどいながら飲み干した。
 すると、いきなり右の手首をつかまれた。
「この手、モールス信号を打てるわけね」
と掌を圧し、甲をさすってくれる母の手がひどく荒れていた。39歳から独り身で働きづめだった証。17になった息子の手を握り締め、なぜか頬をほんのり紅潮させていた。
 父が早世して間もなく近所の店主にくどかれるも「1人で育てますから構わないで」とはねのけ、お見合いもすべて断っている。
 やっと肩の荷が下りた母。まだ46歳、もう俺のことはいいから恋の一つも楽しんでほしい。願いは強かったけれど言いそびれてしまった。親離れが出来てなかったようだ。
 幸せを摘んでしまったかもしれない自責の念が、逝かれてからも心にくすぶっていた。
 誕生日から20日後の祥月命日。コーヒーを淹れて小ビンに移し、庭の小菊を数本切り採って束ねる。墓地は歩いて10分ほどで、コーヒーは冷めずに熱い。墓前にそなえ付けのコップになみなみと注ぐ。寺地内のしめやかな空気によるものか、鮮やかに香り立った。
 昔を思い出して頬を染めているだろうか。石塔に刻まれた俗名を掌でしっかり撫でる。
「恋の一つも楽しめばよかったのに。俺、ずっと言いそびれちゃったよ。勘弁な?」
 コーヒーをそそぎ掛ける。芳醇な香りが、遠いあの日に似ている気がした。胸の奥にもやもやしていたものが、すうっと消えた。残り少ないが心から明るい余生になりそうだ。