入賞作品の発表

第21回 「香・大賞」

金賞
『 ペガサスに乗って 』
石原 郁代
  • 59歳
  • 会社員
  • 香川県

 洗面台に整髪料のスプレー缶やチューブ入りの洗顔料が並び始めたころ、息子の部屋には男臭い匂いがこもるようになった。
 太くて硬い山荒らしのような髪にドライヤーをあて、ニキビを気にして洗顔もする。
「このジーンズにこのシャツ、合うん?」
しおらしく訊いてきたこともある。
 身だしなみを気にするなんぞ、かつてはなかったことだ。
 ははーん、さては息子にもサラブレッド以外に、心ときめく女性が現われたかと、密かに喜んだのもつかの間。
 1996年、春の天皇賞の日。4月下旬だというのに、肌寒く冷え込んだ明け方だった。
 息子は飲酒運転の暴走車に撥ね飛ばされ、配達前の新聞は道路一面に散乱した。散り果てた桜を追いかけて、誰よりもいち早く天空に翔け昇って行った。
 あとには馬の絵が遺された。ジョッキーを背に乗せて空中を翔けている。色鉛筆で色付けされ、背に青地に白抜きの字で、1番フジキセキと読みとれる。
 息子を忘れないでとの思いを込めて、この絵に息子の字で「風」の一字と名前を入れてテレホンカードを作り、皆に貰って頂いた。
 息子はこの日のナリタブライアンの雄姿を観ることもなく、ペガサスの背に乗り緑の風になった。まるでテレカの図柄のように。
「ちょっくら旅に出てくらあ」
実にうれしそうに、コンビニにジュースやスポーツ紙を買いに行った日々。
「あといかほどで飯が食えるかな」
お腹をすかせて、自室から飄々と出てきた夕べ。陽気な笑顔だけを残していなくなった。
 残り香に胸衝かれ、遺体のそばで辺り構わず泣きに泣いた日から、やっと9年が過ぎた。部屋の中から息子の匂いはすっかり消えたが、鼻腔が覚えている。タンスの引出しの下着に、二十歳の青年のヨーグルトのような匂いが残るはずだが、今はもう開けられない。