入賞作品の発表

第33回 「香・大賞」

銅賞
『 二度目のさよなら 』
原田(はらだ) ヒロ
  • 55歳
  • 自営業
  • 京都府

 夫にはかすかな体臭があった。ほんの微かだったから、気づいていたのは私だけだったかもしれない。私自身、日頃はほとんど意識することもなかったが、間近に寄り添うと少しスパイシーな匂いが鼻孔をくすぐった。
 2年の闘病生活を経て夫が逝ったのは7月の終わり。秋になった頃、衣類の整理をしようとクローゼットの引き出しを開けると、Tシャツや肌着から夫の体臭が匂い立った。ほんの微かだったはずの匂いは衣の中で凝縮されたように強さを増していて、思わず袖を通した私を静かに包み込んだ。その日以来、夫のTシャツはパジャマ代わりに、パジャマの上着はガウン代わりになった。
 それから5年。私は二人で暮らした家を処分し、小さなマンションに移り住んだ。仕事のペースを元に戻し、友人達との交際も再開した。一緒に行くはずだった街への一人旅も果たした。止まっていた時間が少しずつ、少しずつ動き始めた5年間だった。
 ある日、ネットで「煮洗い」という洗濯方法を知った。大鍋に湯を沸かして粉末洗剤を溶かし、ふきんやタオルを入れてグツグツと煮込むと、普段の洗濯では落としきれない汚れや臭いもきれいに落ちるという。
 早速、黄ばみが気になっていたふきんを煮洗いしようと、寸胴鍋に湯を沸かした。けれどふと思い立ち、ふきんではなく、5年間パジャマ代わりにしてきたTシャツを入れた。
 ブクブクと泡立つ熱湯の中へ2枚のTシャツを沈め、ゆっくり撹拌しながら弱火で10分余り。真っ白だった泡が薄黒く濁った。さらに5分ほど煮て火を止め、鍋ごとシンクへ移す。熱湯が水になり、透明になるまで何度もすすいだ。
 そのあと洗濯機で脱水し、よく晴れたベランダで天日干ししたTシャツは、少し色褪せてしまったが、洗いたてのいい香りがした。引き出しに仕舞い込んだ後も、スパイシーなあの匂いは戻ってこなかった。