入賞作品の発表

第41回 「香・大賞」

環境大臣賞
『 真夜中の薫風 』
冨永 優花(とみなが ゆうか)
  • 37歳
  • 公務員
  • 静岡県

 「こっちは水が出てる!」何メートルも先から嬉しそうな声が聞こえる。幼子2人を連れて田んぼ道を散歩していた。ゆっくり歩く母を置いて子どもたちはまっすぐ続くあぜ道をずんずん進んでいく。冬の間干からびていた用水路にいきおいよく水が流れ込んでいる。水の流れを見つけては次の田んぼに駆けていく。その小さな後ろ姿を見ながら水田の空気をゆっくり吸い込んだ。「またこの季節が来た」胸がいっぱいになる。
 子どもたちは2人とも新緑の季節に産まれた。彼らが赤ちゃんの頃、毎日夜が来るのが怖かった。夜中何度も起きる赤ちゃんの生態に完全に参っていた。
 ある夜も「ほぎゃあ、ほぎゃあ」という泣き声で目が覚めた。「ああ、起きなきゃ」睡魔に襲われながらなんとか布団から起き上がる。真っ暗闇。起きているのはこの世で赤ちゃんと私だけかのような寂しさ。小さなライトをつけて台所にミルクを作りに行く。
 ふにゃふにゃした赤ん坊にミルクをあげていると、ふと窓から心地よい風が吹き込んできた。同時に土の気配を感じた。田んぼの土と水が混ざった匂い。それは若葉を感じる初夏の雨の匂いに似ていた。
 「田植えしたのか」窓の外に意識を向ける。とたんに大合唱が聞こえてくる。「げこげこ、ぐわっぐわっ」田を満たす水に喜ぶ声がする。皐月の蛙は寝付けないほどにぎやかだ。でも田んぼに囲まれて育った私にとって、このときの蛙の合唱は子守歌であり応援歌だった。孤立無援の育児ではなかったのだ。寂しさが和らいだ。赤ん坊を寝かしつけた後、母なる大地の香りに包まれて私も眠った。
 「おたまじゃくしいるかな」子どもたちが田んぼをのぞき込む。水面にたくさんの波紋が広がる。その数に驚きながらあの夜の応援団を思い出す。早苗をなびかせる薫風が私たち親子を優しくなでる。泥臭くて生命力に満ちた始まりの匂いがする。