入賞作品の発表

第28回 「香・大賞」

銅賞
『 味噌汁の味 』
佐藤 博
  • 66歳
  • 無職
  • 埼玉県

 携帯が「朝だ・朝だ」と鳴り響く。同時に台所から何かを切るまな板の音も聞こえる。
 「博さん、朝ご飯ができましたよ」
と義母の声がする。返事をするまで義母の
「博さん、朝ご飯ができましたよ」の声が続く。
 義母の作る朝飯はご飯、味噌汁、漬物、冷奴、生卵、牛乳。テーブルに綺麗に並ぶ。
 「いただきます」
私はまず牛乳を飲む。義母は味噌汁をすする。いつもだと決まって「博さん、今日は何曜日ですか」と、聞かれる。
 義母は今年、88歳。近頃、痴呆の症状が出ている。しかし、今朝(けさ)は曜日を聞かず
「博さん。今日のお味噌汁の味は違いますね」
と聞いてきた。
「わかりますか。今日の味噌はまさ子の作ったお味噌ですよ」
「まさ子の作ったお味噌がまだありましたか」
「きのうで私の作ったのがなくなりました。まさ子の作った最後の味噌を出しました」
 まさ子は妻の名で義母の一人娘。平成21年8月、還暦を迎える二月(ふたつき)前に亡くなりました。妻は市の手話通訳士でした。
「まさ子が作ったお味噌ですか」
義母はそう言ってまた味噌汁をすすった。
「五年味噌です」
「美味しいですね」
 朝食の支度、庭の掃除、洗濯、神棚のお榊の水交換。これが義母の日課。
 しばらく無言が流れた。そして
「博さん、今日のお味噌汁の味は少し違いますね」
「わかりますか。今日のお味噌はまさ子が作ったお味噌ですよ」
「まさ子の作ったお味噌がまだありましたか。――博さん、今日は何曜日ですか」
 いつもと同じ静かな義母との一日が始まった。