大晦日の朝、外泊の準備を手伝おうと、老健施設に90歳のAさんを訪ねた。前回訪問した時、Aさんは嬉しそうに話してくれた。
「一人息子の家で年取りするんだよ」と。
ドアを開けると、既に、ベッドの上にはポンポンに膨らんだ手提げ鞄が置いてあった。幾日も前から、着替えや施設で作った手芸品を出し入れし、荷づくろいしたであろうAさんを思うと、口許がほころんでくる。
と、窓ガラスに額をつけるように外を見ていたAさんが、大慌てでベッドに引き返してきた。布団の裾をめくり鞄を押し込むと、上着を着たまま布団にもぐり込んだ。
部屋に入ってきたお嫁さんは「ばあちゃんと食べて」と仄かに苺の香りのするスーパーの袋を私に渡し、Aさんを見下ろした。
「うちは古いから寒いしょ。風邪引いて肺炎にでもなったら困るし……」
そこまで言うと、後はあなたから話して、というように、一足遅れてきたご主人の腰を押した。Aさんから視線を逸らし続けていた息子さんが、おどおどと口を開こうとしたとき、Aさんは愛しそうに息子さんを見上げた。
「実は、私も、そう思ってたんだよ」
私は耳を疑った。いたたまれなくなって、苺を洗うのを口実に流し場に向かった。
手土産の持参を見て、すべてを読み、健気に振る舞うAさん。ひねった蛇口は苺を洗うには強すぎたが、私は冷たい水がはねっ返るに任せていた。
重い足取りで部屋に戻ると、Aさんは布団の中にすっぽり頭をうずめていた。布団の裾から灰色の鞄がはみ出している。水滴の光る苺を枕頭台に置き、そっと部屋を出ようとしたとき、Aさんはムクッと起き上がった。
「うわっ、うまそう。食べよ、食べよ」
言うが早いか、二つ三つ続けて口に放り込んだ。すすめられて、不覚にも涙をこぼした私に、Aさんは「ありがと」と言い、苺をつまんで私の掌に載せてくれた。
忘れられない大晦日となった。