久しぶりに実家の玄関を開けた瞬間、
「うわっ、何この臭い」
と、息を詰めた。
生ごみが熟れたような、ねっとりした臭いが、息を塞ぐほど押し寄せてきたのだ。
気が動転して、靴を脱げずにいると、
「あら、来たの?」
と、奥から母がでてきた。
いつも通りのその顔を見た途端、胸の奥がジワリと痛んだ。
1人で、この臭いの中にいたんだね──
言葉を失った私は、臭いの元を確かめようと、台所に向かった。
冷蔵庫の扉を開けると、変色した肉や賞味期限切れの豆腐、腐った煮物や漬物が、容赦なく詰めこまれていた。
呆然とした。
先月、母は1人でバスに乗って病院まで来た。遠方の私は、最近は実家に寄らず、病院で落ち合うようになっていた。医師の前で淀みなく話す母に、私はすっかり安心していた。
けれど、思い返せば予兆はあった。
必ず私より先に来ていた母が、遅れるようになり、財布が見つからない、と探し回ることもあった。
それでも私は「そんな日もある」と受け流し、母の変化から目をそらしていた。母は、母のままだと思い込んでいた。
臭いは、母が一人で抱えていた時間の重さを、絶え間なく私につきつけてくる。ごめんね、おかあさん。
母がラジオ体操に出かけた隙に、窓を開けて換気し、冷蔵庫の中身を片付けた。戻ってきた母は、流しの空タッパーに驚きもせず
「今、洗おうと思っていたの」
と、洗剤もつけずにこすり始めた。
母は、これからどうなっていくのだろう。
そんなことを考えながら、部屋を見渡すと、父の写真の前に置かれたりんごが目に入った。
手に取ると、健やかなりんごの香りがした。
「どれ、剥いてあげるよ」
母はそう言って、皮を細く剥いていく。
赤い皮がくるりと落ちる度に、あの頃の台所の明るさが、かすかに戻り、空気が洗われていくような気がした。
変ってしまう事は避けられない。
けれど、全てが失われるわけではない。
そう気づかせてくれたのは、母の手元からふわりと広がった、りんごの香りだった。