入賞作品の発表

第27回 「香・大賞」

銅賞
『 くちなし 』
島 糸子
  • 47歳
  • パート
  • 愛知県

 母はくちなしを愛し、庭のその白い花に
「なんだか切ない名前だねぇ」
と話しかけていた。当時の私は草木に興味など無かったが、母が活ける一輪挿しから広がるこの甘い香りを毎年楽しみにした。そしていつまでも……いつまでもこんな初夏のささやかな幸せが繰り返されると信じていた。
 ある年、父が家業に失敗し、ついに家までも手放さねばならなくなった。父は半ばヤケになっていた。すでに嫁いでいた私は何より母を案じた。ただひたすら家庭を守る、傲岸(ごうがん)な父のまるで影のような人……。が、母は思いがけず明るく、相変わらず淡々と父に従った。
 引っ越しの肌寒い朝。母は赤黄色の実を付けたくちなしの傍にポツンと立っていた。
「ごめん……連れて行けない……ごめんよぉ」
母は幾度かそう呟くと、肩を震わせ声を殺して泣いていた。そんな母を見たくはなかった。
 1年が過ぎた。母は末期癌だった。かつての福々しさが嘘のように痩せ衰え、ほぼ寝たきりとなっていた。母が力無く私に言った。
「ねえ……くちなし……元気かねぇ」
当然母も私も知っていた。その後あの古い実家は取り壊され、瞬く間に美しい分譲住宅に姿を変えた。と同時に私達家族の数十年の息づかいなど跡形もなく消え去ったことを……。それでも母と私は会話を続けた。
「うん、もうじき……。もうじき花が咲くよ」
 けれど程無く母は逝った。結局母は老いた身に降りかかった数々の不運を嘆くことも無く、むしろ何かに感謝しつつその最期までを丁寧に生きた。やがて2年後、父も逝った。
 あれから私はさまざまな葛藤を抱えたが、歳を重ね、両親の……多分両親にしか解らない「夫婦のありかた」もようやく受け止められるようになった。そして母の「時間は薬」という口癖のとおり、未だ涙を誘うくちなしのあの花の香りだって、またいつの日か好きになれそうな気がしている。