1991年9月アーカイブ

自然と芸術

「かおり風景」第6回掲載/平成3年

 家から歩いて数分の所に京都御苑がある。子供の頃から慣れ親しんだ外周四キロの緑に包まれた苑内を、犬の散歩がてらに夜の遅い時間を利用して小一時間ほど早足の散歩をするのがこのところ楽しみになってきた。点在する街灯の明かりに豊かな緑の陰影がなんとも閑かなたたずまいの中で、街の喧噪が遠くの方に響いている。一昨日は四月の花冷えにも珍しいくらい冷たく張りつめた夜だった。愛犬と自分の息も暗闇に白く煙のように見える。黒々と立ち並ぶ松の梢の向こうに少し丸みを失った月が雲の動きの中に浮かんでいた。白くぼんやりと浮き立つのが桜らしい。まだ大半の物は固いつぼみの中に、ひたすら暖かな日差しを待ちわびている様だ。 紫宸殿に向かう広々とした玉砂利の道を暗がりの中で歩くと、足下の音がなんとも心地よい。

 たおやかなシルエットを見せる大屋根の上には雲の影が早い流れで過ぎ去って行く。松風に琴の音が響くのはこの様なときなのだろうか。梅苑では遅い白梅が香りいっぱいに咲き誇っていた。一体これは何なのだろうとふと立ち止まってしまう。私がそこに散歩をするしないに関わらず、月と雲のハーモニーは奏でられ、漆黒に塗られた木々の重奏音の中に春の花の旋律がある。思わず我に返った自分の中を言い表すのに初めて「美しい」とか「綺麗」とかの言葉が突き上げてくる。自然は私達の存在など全く意に介していない。無意識という意識が絶対的な美しさを具現し続けてしまうのだ。この様な情景の中で立ち止まるとき常に思い起こす言葉がある。

 「いのちの窓」という詩集の中で陶芸家河合寛次郎が「自分の仕事でありながら、自分の仕事でない仕事」と呟いている。釉薬の研究に独自の世界を見いだした寛次郎が、自らの仕事が形になっていく最後の課程で窯の中で燃える火の力に全てを委ねざるを得ない事を知り、造形の神の司る仕事を謙虚に見つめながら常に思い願った祈りの言葉だと思う。相対的な自分の存在に限界を認めながらその限りを尽くした充実感と共に、絶対的な物へと昇華していく可能性を自然との共存の中に見いだしていたのだと羨ましく思う。

 考えてみれば豊かな四季の移り変わりに恵まれこの温暖な島国に生まれ育った古来からの美意識は、自然の中で生かされている一つの生命体でしかないという事実を謙虚に受け止め、自然の力に畏怖の念を抱きつつ生きる営みの有り難さを謳歌してきたのだ。西洋的な意味合いで芸術や文化の社会的な価値の再評価が高まりつつある中で、その絶対的な背景として自然の存在を常に認識し続けてきた東洋的な美意識が逆に欧米で深い評価をされつつあるように思う。この島国で生きる私達が身体の中に温め続ける事、これこそが本来の姿だと思い大切にしたい。

※発表年代順

筆者
畑 正高(香老舗 松栄堂 社長)

千年の都に生まれ育ち、薫香という伝統文化を生業にして、日頃考えることや学んだことを折に触れ書きつづっています。この国に暮らすことの素晴らしさ、世界の中に生かされていることのありがたさ…お気付きのことがありましたら、お聞かせください。