入賞作品の発表

第39回 「香・大賞」

審査員特別賞
『 天使の声とともに 』
清水 章弘(しみず あきひろ)
  • 54歳
  • 自営業
  • 大阪府

 突発性難聴になった。突発性、の言葉通り本当に、突然のことだった。
 静かなわが家で、夫婦2人きりの会話なら、それほど支障はない。だが、街中の雑踏や電車の車内など、背景の音が騒がしくなると厄介だ。目の前にいる人の言葉でも、ほぼ聞き取ることができない。平衡感覚も失って時々、めまいや吐き気を起こすようにもなった。
 不思議な現象も始まった。耳の奥の方に、天使が棲みついたことだ。冗談でも、勘違いでもない。例えるなら、ヘリウムガスを吸って出す声のように、甲高い声でささやいてくる。すぐにその声は、自分が発した言葉の残響だとわかったが、いまも頻繁に、天使は私の耳へ舞い降りてくる。
 予期せぬ新たな日常の到来に、かなり私の気分は落ち込んだ。会話中に、話し相手に内容を聞き直すことにも、申し訳なさを覚えた。
 ところがある秋の日、妻と散歩をしていて、ふっと感じ取るものがあった。
「なんか、いい香りがするよね」
「そうね。金木犀じゃないかなあ」
 しばらく歩いて、見つけた。やはり、金木犀だ。近づくと、香りに全身が包まれるようで、そんな感覚は初めてのことだった。
 その後も、同じような体験が続いた。大好物で何度も味わったモンブランに、隠し味で柚子が添えられていることを、かすかな香りから嗅ぎ取った。また、道の駅で買い求めた産地直送の新鮮野菜に、ほのかな土の香りが匂い立つのも、わかるようになった。
 耳の聞こえが衰えた分、鼻が利くようになった、という話は聞いたことがない。だが私の場合、明快な音の聞き分けを失った代わりに、香りを感じ取り、嗅ぎ分ける力が高まったらしい。そう思うことで少し、気分も上向くようになった。難聴は芳しくないままだが、天使の声とともに、楽しんでみようと思う。
 これまでもあったのに、気づかなかった、私を包む日々の香りや匂いを。