入賞作品の発表

第39回 「香・大賞」

環境大臣賞
『 故郷(ふるさと)の臭い 』
原 徹(はら とおる)
  • 愛媛県

 M市を初めて訪ねたのは30年あまり前。同市にある出先機関に転勤したときだった。転勤前、上司からは仕事の内容よりも先に「工場の臭いには覚悟しておけ」と忠告された。M市は国内有数の製紙の町。殊に工場から発生する悪臭は有名だった。たしかに引っ越しの際、その強い臭いを実感した。たとえるなら、濡れた新聞紙の臭いをさらに凝縮した臭いとでも言うべきか。海風が吹くと港湾地域に林立する工場から、不快極まりない臭気が漂ってきては私を悩ませた。地元で生まれ育った職場の同僚に話すも
「まあ、最初はだれでもそうですよ。ははは」
とそっけない返事。慣れなのだろうが、同僚の鈍い嗅覚を疑うほどであった。
 ところが1年も過ぎたころ、私の感覚に変化が生じてきた。嗅覚は工場の臭いをキャッチしているのだが、不快とは思わなくなってきたのだ。臭いの中にほのかな木の香りが感じられ、大袈裟に言えば懐かしさにも似た感情すら湧きあがるようになった。
「最近、工場の臭いを嫌だと思わなくなったよ。むしろ臭いがないと寂しいくらいだ」
と同僚に話すと
「ここの人はみんなそうですよ。これが僕らの故郷の臭いなのですから」
とわずかに嬉しそうな顔つきで答えた。M市の人々はこの臭いに愛着すら抱いていたのだ。ほかの町の人には理解できなくても「故郷の香り」だと。
 2年後、私は転勤でよその町に移り住んだが、今でも決して悪臭だったとは思わない。その証拠に、その後も仕事の都合で何度も M市を訪ねることがあるが、そのたびに同行者が「なんだ、この変な臭いは」と騒ぐのを私は笑って
「これがこの町の故郷の臭いだ。住めば分かる」
と話す。いや、そればかりか今もその臭いを嗅ぐと、当時の楽しかった家族や職場の思い出が鮮やかに蘇るのだ。