2012年6月アーカイブ

「かおり風景」第27回掲載/平成24年

 虚空に花降り音楽聞こえ、霊香(れいきょう)四方に薫ず

 これは、謡曲【羽衣】の一節。漁師白龍は、早春の一日、三保の松原に舟を留め浜に上がってみると、常とは違うあたりのようすに、思わず不思議やと歩を止めました。すると目の前にある松の枝に、美しい衣が一筋掛かっていたのです。それは、色香妙にして常には見たこともない神々しいものでありました。
 このように、花が降り音楽が聞こえ不思議な芳香がと、視覚・聴覚・嗅覚で、ただごとならぬあたりの気配を表現しています。天女の衣に出会った時というのは、まさに異界との遭遇でした。この世ではない、異界が出現していたのです。天女は、月宮殿(げっきゅうでん)に勤める30人の天乙女(あまおとめ)の一人でした。宮殿に帰り、月の満ち欠けをつかさどるために、その衣を返してほしいと訴え、物語は展開します。
 長い歴史を通じて、我が国では、あるいは東洋では、異界との遭遇ということは大層重要な体験の一つとして考えられてきました。人間の営みの限界を常に感じ、異界の存在に畏怖を持って向き合うということが、限りある命を得てこの世を生きる上で重要なバランス感覚であったのだろうと思われます。その異界と遭遇すると、さまざまに説明不可能なことを体験するのでしょうが、どうも不思議な匂いも漂うようです。

 京都の丹後半島を訪問する機会に恵まれました。冬季の日本海は鉛色に深く、その日も雲が重く垂れこめ、視界は奪われていました。伊根町本庄浜というところに、浦嶋神社(宇良(うら)神社)を訪問し、浦島太郎の玉手箱の中身を確認してみたかったのです。物語によると、あの箱を開けたばかりに、立ち昇る煙にあたった浦島太郎はお爺さんになったといいます。煙にあたって瞬時に年老いてしまうとは、童話としては楽しい展開です。多くの方々と同じように、物語の結末として、私も子供のころから親しんできました。しかし、ある一枚の錦絵に出会ってから、「匂いは絵に描かれると煙に見えてしまう」ということを学び、以来「玉手箱の中身は香りに違いない」と考えるようになりました。懐かしい香りに出会ってしまい、記憶や意識が現実を注視させてしまったのではないかと推察をするようになっていたのです。
 宮司さまから、懇切丁寧に伝説の歴史的背景と変遷についてお話を伺うことができました。丹後風土記に伝えられる浦嶋子(うらしまこ)の物語が、武家社会になって浦嶋太郎と名称を転じ、明治期に教科書に採用されたことによって「うらしまたろう」が一気に国民的童話として認知されることとなったそうです。
 そして、700年ほど昔に描かれた浦嶋子の物語絵を拝見することができました。描かれた壮大な旅物語の中に、竜宮城の門前で一人待たされる浦嶋子の姿があります。乙姫(亀姫)が城内で両親に許しを乞うている間、門外で待たされているのですが、よく見るとそのあたりにモクモクと雲か煙か、立ち昇る異界の気配が描かれているではありませんか。当に「霊香が四方に薫じている」のだと思います。そこが常世(とこよ)という異界であることを教えてくれているのです。
 この物語絵の最後には、大きな榎(えのき)の室(むろ)に身を寄せた浦嶋子が、ついに玉櫛笥(たまくしげ)(玉手箱)を開けて立ち上る煙とともに老人に転じてしまうところが描かれています。宮司さまのお話によると、箱の中から立ち上ったのは蘭の花の芳香で、それはまさに亀姫の香りであったそうです。
 いかがでしょうか。異界に遭遇するときには、霊香が薫ります。そして香りは絵に描かれると煙に見えてしまいます。
 こんなことを考えながらその絵を眺めていると、また次のことが気になりました。竜宮城の建物はもとより、浦嶋子の衣装が、赤いのです。少し黄味の入った柔らかな朱色です。そして何よりも、最後に開けてしまった玉櫛笥の箱も同じ朱の箱でした。
 「施朱(せしゅ)」という古墳時代の風習が知られています。国内各地で発掘された事例がたくさん報告されています。魏志倭人伝にも倭の国の人が朱を使うことが記されています。「魔除け」や「生命の復活」を願ったとされていますが、その色の素材は、ベンガラか、辰砂(しんしゃ)だとされています。
 さて、この辰砂が、地中から採集される「丹(に)」というものだと知ると、今日なお【丹波・丹後】と呼ぶこの地域に伝わる物語が朱の色で描かれ、施朱古墳の発掘例もたくさん報告されていることが、単なる偶然とは思えないのです。次なる関心をよびます。「丹生(にお)」の地名が点在しています。この言葉が「丹穂生・丹秀生」などとかかれ「にほふ」という言葉から「匂う」という表現にまで発展してきた文化史を、また注視し続けたいと駆り立てられています。「丹の国」が気にかかります。

※発表年代順

筆者
畑 正高(香老舗 松栄堂 社長)

千年の都に生まれ育ち、薫香という伝統文化を生業にして、日頃考えることや学んだことを折に触れ書きつづっています。この国に暮らすことの素晴らしさ、世界の中に生かされていることのありがたさ…お気付きのことがありましたら、お聞かせください。