祇園精舎での一会

「かおり風景」第22回掲載/平成19年

 昨年夏、新聞の報道で考古学者網干善教先生の訃報を知り、一つの感慨にしばし時間を忘れることとなった。1972年に発見された高松塚古墳の壁画美人は、考古学の魅力を広く知らしめるきっかけとなった。網干先生のご業績として特筆すべきものだと思う。

 私は、先生とは一度だけお目にかかったことがある。大勢の中であったので、もちろん覚えていただいていたはずはないのだが、日に焼けた先生の笑顔と、たいそう真剣に語られたお話の力強さから、私の記憶の中にははっきりとその一会が焼きついている。

 20年近く昔、奈良薬師寺の高田好胤老師のインド仏蹟参拝にお供する機会を得た。20日間を超える旅だった。世にいう八大仏蹟のうち、サンカーシャを除く7つの聖地へ読経の旅だった。

 網干先生にお目にかかったのはその旅の折。平家物語で有名な祇園精舎、サヘト・マヘトを訪問した時、先生はインド考古局との共同発掘調査で5ヵ年計画の終盤に入っておられたと記憶している。確か、発掘現場で転落をされ先生が怪我をされたとの情報が入り、老師様以下、参拝団の誰もが心配をしながら目的地を目指していた。

 祇園精舎には到着したのは夕闇迫る頃だった。到着と同時に、老師様にとりあえず法要を勤めていただきたいと先生のご依頼だった。大規模な発掘現場には、大きなスツーパ(卒塔婆)の基壇が発見されていた。大円の中心の石には仏舎利が納められている可能性が高く、先生は高田老師に是非とも法会を勤めていただいた上で、作業をすすめたいと鶴首の思いで待っておられたのだった。

 樹々の影も合掌する人々も、大地から長大な時間を経て再びこの世のものとなった壮大な仏教遺跡も、全てのものが深い茜色に染められていく。地平線に沈みゆく大きな夕日だけが昔日のことを知っていたかのように悠然と見守っていた。実に心に残る法要だった。

 お寺に生を受けられた網干先生は、ご自身も僧籍を得ておられた。しかし、経文に書かれている美しい極楽浄土の存在に子供の頃から違和感を拭えず、僧侶として生きることに疑問を持つことから入った考古学の道だったとお話された。

 しかし、日本を離れ、発掘という目的のために長い年月をかけてこの祇園精舎に過ごすことができ、あの法華経や阿弥陀経に書かれていることが真実であったと身を以て確信したと力説された。極楽鳥が飛び交い、花々が咲き乱れるという。なによりも、砂埃にまみれた大地のどこが豊かなのだろうと疑っていた自分が、発掘調査の過程でとんでもない大きな井戸の発見に携わり、その井戸の底にヒマラヤの雪解け水が轟々と音をたてて流れる様を目の当たりにされたという。古代インドが現在とまったく違った自然環境にあったと想像を膨らませておられた。

 ご自身が仏弟子として聖地に滞在され、多くの同朋が故国から参拝にやってくる。その姿を見ていて感じることとして、是非皆さんに考えてほしいというお話がまた印象的だった。それは、永い歴史を経て仏教も実に多くの人々の解釈を介して今日に伝わってきた。しかし仏教徒なら全ての人が、先ず発句には「南無釈迦牟尼仏」と一言帰依してほしい。それからどうぞそれぞれの道を歩んでほしい。「南無大師遍照金剛」「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」......というように。

 祇園精舎は、正式には「祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)」という。その聖地で、発掘の結果、再びこの世のものとなった豊かな井戸の水は、インド政府の手で、周辺地域の灌漑用水として利用される計画だと網干先生はとても嬉しそうに、日焼けした顔に白い歯を覗かせておられた。人の縁の不思議さと、仕事の偉大さを教えられた先生との一会だった。先生のご遺骨はこの聖地にも分骨されたとのこと。ご冥福をお祈りすると共に、いつかお参りさせていただきたいと願っている。

筆者
畑 正高(香老舗 松栄堂 社長)

千年の都に生まれ育ち、薫香という伝統文化を生業にして、日頃考えることや学んだことを折に触れ書きつづっています。この国に暮らすことの素晴らしさ、世界の中に生かされていることのありがたさ…お気付きのことがありましたら、お聞かせください。