2006年9月アーカイブ

宝船

「かおり風景」第21回掲載/平成18年

足ることを知る心こそ宝船 事のかずかず積み載せずとも

 わが社の店舗の床の間は、兼中斎宗心宗匠の筆になるこの掛け軸で新年を迎える。けっして古くからの伝統などではなく、10年ほど前からこの軸を飾るようになった。正月だからといってきらびやかな彩が輝いているわけでもない。墨色一色で、帆を風に大きく膨らませ波を分けて大海を行く宝船の姿は、ゆったりと丸みを持ってほのぼのと温かみを醸し出している。この軸を掛け、無事に新しい年を迎えることができることに、なんとも穏やかな喜びを覚えるようになった。

 衣笠の龍安寺は石庭で有名だ。どのような季節に訪れても、本堂の縁には、その抽象的な庭を前に多くの人々がゆったりとした時間を楽しんでいる。幾何学的でもあり、哲学的でもある。この寺の庭に「吾唯足知の蹲」という実に心憎い名物があることをご存知だろうか。「吾唯足知」の四つの文字に全て口の字があることから、その口という文字を真ん中に据えて、真ん丸い石に四つの文字を配し、口の部分をくりぬいて水を張り、蹲としている。なんとも楽しい意匠だと感服してしまう。

 私は、長い間、この「知足」という言葉を一つの指針として学んだつもりでいた。「足ることを知る」とは、道徳的でもあり儒教的でもある。何よりも仏教的だ。物質主義を本流としてきた西洋文明に対して、実に東洋的な精神文化だと理解をしてきた。質素倹約を旨として誇り高く生きた日本人の心のありようを学んだつもりをしていたのだ。

 昨今、ハードとソフトの関係を考えるようになった。この二つは、ごく当たり前に私たちを取り巻いている。実は私たちが一度限りの社会生活を全うしていくためには、どうもこれらの関係をよく理解しておく必要があるように思えてしかたがない。豊かな物質文明に生きるからこそ、このことがますます気になってくる。

 最近では、パソコンは誰もが簡単にセットアップして使いこなせる身近な電化製品と化してきている。しかしながら、90年代の初頭、まだMS-DOSというオペレーティングシステムがその主流をなしていた時代、パソコンに挑戦しては挫けてしまった経験を持つ人もけっして少なくはないはずだ。今だから冷静に思い起こすことが出きるが、パソコン本体と、OSと、アプリケーションのバージョンが揃わないかぎり、私たちの言うことを聞いてくれる親しみ深い家電製品には程遠く、ほとんどいうことを聞かず使い物にならない憎しみ溢れる厄介者だった。ハードとソフトの関係とは、この時の印象があまりに強すぎて、少々封印されてしまった嫌いがある。

 ハードとは、物体そのもの。それに比して、ソフトとは、物理的に存在しないもの。たとえば、机は、ものを書いたり本を読んだり食事をすることに用いるハードなのだが、高いところのものを取るのに踏み台にしたり、急病の人を寝かせて寝台として用いたりもできるのだ。一つのハードが、アプリケーションの展開によってどんどん違ったソフトを吹き込まれて行く様子が良く理解できる。

 ハードとソフトの関係には一つのセオリーが存在する。レベルの低いハードとレベルの低いソフトを揃えても、結局はレベルの低い結果しか生まれない。ソフトのレベルが低いとたとえハードが良くても、やはり内容的には低いことしかできないのだ。ところが、ソフトレベルが高いと、ハード環境が貧しくとも、それなりに説得力のある結果を生むことが可能となる。ましてや、その両者が高いレベルで揃ったときには、もちろん素晴らしい結果を生み出すことが約束されるのだ。前出の「知足」とは、必要以上のハード環境を求めず、レベルの高いソフトの展開を心がけ、与えられた物質的な環境で常にベストのパフォーマンスに力を注ぐことではないだろうか。昨今、このことがとても気になってしかたがない。

 いまひとつ、面白いセオリーがある。ハードは継承することが実に簡単。私たちの存在とは全く関係のないところで、単純に世代を超えて継承される。しかしながら、ソフトはどうだろう。このソフトは、個の中に養われ息づいているだけに、個の存在が終わるとき、継承はほとんど不可能となってしまうのだ。生活の知恵や工夫、要領や知識など実に多くの物事がソフトとして私たちを形成している。語学力などまさにソフトそのもの。ソフトは、個という一人の人材の中にだけ存在するものではなく、家族や会社、地域などの社会にも育まれている。大きくは国や人類の知恵として......。

 レベルの高いソフト。私たちが求めるべきものは、これしかないのではないだろうか。私はこの価値観を共有できる社会に生きたいと願っている。足ることを知る心こそ宝船。実に穏やかな船旅だと堪能している。

※発表年代順

筆者
畑 正高(香老舗 松栄堂 社長)

千年の都に生まれ育ち、薫香という伝統文化を生業にして、日頃考えることや学んだことを折に触れ書きつづっています。この国に暮らすことの素晴らしさ、世界の中に生かされていることのありがたさ…お気付きのことがありましたら、お聞かせください。