らすとサムライ

「かおり風景」第19回掲載/平成16年

 1877年、明治初期に東京帝国大学で動物学の教鞭をとったエドワード・モースと言う人物がいた。貝の研究のために来日した彼は、江ノ島で研究活動を始めた。持ち前のユニークな観察眼によって、彼が車窓から見つけた大森貝塚の発見は、日本における考古学の始まりとされている。東洋の不思議な小国に出会ったこの研究者は、250年以上の鎖国によって個性豊かな進化を遂げた我が国の生活様式に魅せられ、民俗学的に貴重な資料を大量にアメリカに持ち帰ることとなった。それが、マサチューセッツ州セーラム市の博物館でコレクションとして保管され、日本の民俗学研究に大きく貢献している。

 そのモースに推薦され同じく明治政府によるお雇い外国人教師の一人として1878年に来日したアーネスト・フェノロサと言う人物も忘れてはならない。ボストンのハーバード大学で哲学を学んだ彼は、モースとは違った美意識と鑑識眼で日本美術の価値に気付き、あらゆるジャンルにわたって膨大な日本美術品の蒐集を進め、今日世界一の日本美術コレクションと言われるボストン美術館の地位を築くこととなった。岡倉天心との交流も良く知られている。

 フェノロサが、日本絵画の狩野派にちなんで「カノウ」と自らの子供を命名するほど日本に入れ込み、ついに仏教徒に改宗するまでになったことは有名だ。大津の三井寺の境内に墓所があり静かに眠っている。このフェノロサが出身したセーラムは、大変敬虔な清教徒の町で、故郷の人々は、異国の地で異教に転じ生来の信仰を捨てた学者には大変冷たい対応をしたという。

 同じ頃、函館から脱国してそのボストンで西洋文明を学んだ日本人がいた。京都の同志社を建学した新島襄だ。江戸の武家の家に生まれた新島は、若くして蘭学を学び、20歳の頃にオランダの軍艦を目の当たりにしてその迫力に圧倒され、鎖国の国を抜け出し西回りで一年をかけてボストンへたどり着いたと言う。キリスト教に改宗し洗礼を受け、かの岩倉使節団と共にヨーロッパの視察まで体験し、帰国後、京都にキリスト教主義学校を開校した。今日の同志社へと発展している。今年はその「脱国」から140年。

 映画「ラストサムライ」を見た。明治政府に招聘され日本陸軍の基礎形成のために来日したトム・クルーズ扮するところのオールグレン大尉が武士道に出会い、自らの生き様を「侍」として見出していくすばらしい作品だ。この映画が私達に語りかける明治初期のわが国の姿は、「和魂洋才」の国づくりを考えた先人たちの歴史の事実として、様々な局面にその足跡を見ることが出来る。「侍」になったオールグレン大尉の生き様は、仏教徒となったフェノロサの人生にも大きく重なり合って見える。

 土佐の漁民が漂流し米国の捕鯨船に救われ、草の根交流の先駆けとなったジョン万次郎。黒船を率いて浦賀に来航したペリー提督。日米交流の歴史は、この時代に大きく相互理解を深めている。今年は、日米和親条約が結ばれ、実質的に日本が鎖国を解いて150年。ボストンに日本協会が設立されて100周年。

 この時代の賢人達の命の燃やし方が見えてくる。日米両国が、共に手を取り合って世界に武器を振り回すようなことであっては、あまりに歴史を知らなさすぎると自責の思いだけが募ってくる。異民族間、異文化間、そして宗教観を異にするもの同士の相互理解を求め合うことの楽しさに、今一度立ち止まりたい。「ラストサムライ」を単なる娯楽映画に終わらせたくはないと願っている。

筆者
畑 正高(香老舗 松栄堂 社長)

千年の都に生まれ育ち、薫香という伝統文化を生業にして、日頃考えることや学んだことを折に触れ書きつづっています。この国に暮らすことの素晴らしさ、世界の中に生かされていることのありがたさ…お気付きのことがありましたら、お聞かせください。