2001年11月アーカイブ

「かおり風景」第16回掲載/平成13年

 二回にわたって私の愛犬の命を救ってくださった獣医の先生がおられる。その先生の処置をつぶさに横で拝見していて、消去法というものを学んだ。そして、それが、あの王朝貴族たちの社会で日常的に行われていた処し方の基本であったと気がつくのに大きなきっかけとなってくれた。 


 朝の散歩の途中、あと自宅までそんなに距離のないところで、突然にしゃがみこみ、倒れこみ、ついには全ての四足を投げ出して目をむいてしまった愛犬。抱き上げようとしたときよほど痛かったのであろう、私の右手に思わず噛み付いていた。あまりの異常に慌てた私は、ご近所の家にかけこみ、電話を借りて自宅へ「免許証と携帯と財布と毛布と車!!」と怒鳴っていた。駆けつけた妻は、もう会えないと見送ったという。

 先生は、てきぱきと心音を確認し、眼の開き方や瞳孔も確認。血液をとって分析器にかけ、熱を測り...。「ふ~む、おかしい?心臓しかないな...」とつぶやきながら、「レントゲン撮りますから手伝ってください」と鉛のエプロン武装となった。結果、心臓肥大。血液ポンプが空打ちを繰り返し、全身に血液が廻っていない状態とのこと。点滴と静養で薬をもらって帰宅となった。

 二回目のときは、一週間ほどのうちにだんだん力がなくなって食欲もなえ、これはおかしいと先生のところへ行くなり「緊急手術!!」付き添っていた私は「へっ!?」と血の気のひいていくのがわかる。麻酔の点滴を受けた愛犬は崩れ落ちるように眠りこけて開腹手術。摘出された子宮は大きなフランクフルトソーセージのようになっていた。「子宮内膜症」とのこと。一晩泊まって翌朝迎えに行くと、元気に尻尾を振ってくれた。


 消去法......獣医学という分野に総合的な知識と経験を重ねられた先生ならばこそ、物言わぬ我愛犬の容態を適確に見極められ、適確な対処をされる。当たり前といえばそれまでだが、なるほどレベルの高い教養の実践というものは素晴らしく気持ちのよい世界ではないか。「これは大丈夫...」と一つずつ消し去り「おかしいのはこれしかない、ここに違いない」と自信を持って断定できるということが、とても洗練された結果をもたらしてくれるのだ。

 暗がりにおいてすれ違った人が身につけている香りでどこの誰か識別ができたという平安貴族の社会。この伝説に憧れて自分もそのような香りを身につけたいと願い出す現代人がおられる。すれ違っただけで名刺代わりになって識別できるほどの香りなど、言いかえれば個性が強過ぎるほどの香りということで、そんなものを身に纏っているのはいかにも滑稽なこととなってしまう。

 では、平安貴族の伝承とはいかなるものなのだろうか...。源氏や枕草子が書かれた王朝時代。丁度千年昔の京都の町は十万人の大都会だったと考えられているのだが、その中で、香を身に纏い管弦を楽しみ牛車に乗って恋人のもとへ通うことのできた貴人達というのはせいぜい千人足らずの社会だったのではないかといわれている。

 現代的な私達の発想ではちょっと近づくことも不可能と思われるほどの高度な唐様の教養を生立ちの中で身につけ、とても総合的で品質の高い生活のレベルを保証されていた貴族たちの社会の中であるからこそ、「これだけの香りを身に纏える人はあの姫君しかありえない!」というような判断を下すことが可能であったのだ。

 これは誰にもまして際立った香りとか、派手な香り、目立った香りを身に着けているというようなものではなく、これほどの香りを身に纏いこなせるという意味で、消去していく中で残ってくるべき存在が適確に判断できたのだろう。松風に奏でる琴の音でその存在を確信したのも同じことではないだろうか。

 きわめて高いレベルで教養を共にする人々だけが下し得る適確な判断の楽しさ、消去法とは結果としてだけ提示できるいかにも力のこもった判断なのだ。拙い経験の中で稚拙な判断を下して、それが個性だとか自由だとか思いこんでいる現代人にとって、そこにはぜひ学ぶべき美学があるのではないだろうか。

※発表年代順

筆者
畑 正高(香老舗 松栄堂 社長)

千年の都に生まれ育ち、薫香という伝統文化を生業にして、日頃考えることや学んだことを折に触れ書きつづっています。この国に暮らすことの素晴らしさ、世界の中に生かされていることのありがたさ…お気付きのことがありましたら、お聞かせください。