香り...時空を越えて

「かおり風景」第13回掲載/平成10年

 はたして、時間や空間は物理的に越えることのできるものだろうか。この主題は、人類にとっておそらく原始の時代からの宿願であったと思う。そこには、多くの人々の脳裏を掠め続けてきた魅力があるのだ。現代の最新技術をもってすれば、遺伝子の組み替えまでも可能となったにもかかわらず、時空のコントロールに関しては、未だ「夢」として抱き続けなければならない。なんと難解なテーマだろうか。小説や映画など、フィクションの世界では、非現実的ではあっても可能な限り具体的にまとめ上げる工夫を繰り返してきた。時空を自由に往来する夢を取り上げた架空の世界は、その数を数えることも不可能なほどに繰り返し楽しまれてきている。

 空想することすら徒労に終わりそうなこの難解なテーマを見事に取り上げた作品がある。藤子不二雄の傑作「ドラえもん」だ。このアニメのすばらしさは、不可能と認識することに始まっている。夢の実現に対して中途半端な未練を持たず、絶対にあり得ない世界と認めることによって、いとも簡単に夢の実現を成し得ているように、私には見える。いつでも空間をワープできる「どこでもドア」や、時間を自由に往来できる「タイムマシン」とその入り口たる机の引出し。あのポケットから取り出される様々なアイテムの中でも、永年にわたるシリーズを通じて、ドラえもんの超現実的な能力の絶対的な中心は、なんと言っても「時空を越える」あの二つの不思議だと、私は憧れている。


・・・時空を越える、物理的に・・・


 私たちの心や魂がこの肉体とともに存在せざるを得ない限り、これは一つの「願い」であり続けると同時に「夢」であることを認識しておくべきだろう。複雑な現代のように、世の中が醸し出す捻れや矛盾などを見つめていると、いくつかの原因は、この憧れに対するけじめの無さに起因する惑いのように感じられるからだ。科学技術の進展に全面的に依存しながら、あらゆる可能性は究極まで突き詰めなければならないと考え、一心不乱に走り続けてきた人類の価値観。ここに疑問を挿む余地が少し見え隠れしているのではないだろうか。

 科学の力に未だ目覚めていなかった時代の人々は、あらゆる事象に対して物理的な結果を必要以上に求めることをしなかった。このことは、実は、精神的な自由を保障していたのではないだろうか。肉体と精神を容易に分離して現実を直視することのできる人々は、たとえ物理的充足度が低くても精神的豊かさを体感として智覚しているのではないだろうか。そして、その幾つかのきっかけを「香り」が果たしているように思うのだ。


 藤原時平を中心とする藤原一族からの圧力。平安京における政争に敗れ、とうとう筑紫の国・太宰府の地まで左遷の身となった菅原道真は、延喜元年(901)重陽の節句(旧暦9月9日)にあたって、遙か都を懐かしむ歌を残している。


去年今夜侍清涼
秋思詩篇独断腸
恩賜御衣今在此
捧持毎日拝余香


 あの天神信仰の神様とまでなった道真公が、自らの寂寞とした姿を見つめ、思いよ都まで届けと言わんばかりに一心にこの歌を詠んでいることに、私は、とても大切な意味を感じている。公をして、都への想いを募らせるきっかけとなったのが、他ならぬ宇多天皇より賜った御衣から立ち上るほのかな薫香の香りであったという。香りの持つ不思議な力を感じるのだ。香りは具体的な存在でありながら、とても抽象的な余韻を残してくれる。そこに精神が自由に放たれているではないか。

 室町時代以降、天然で良質な沈水香木の個々に固有名詞を付加することが行われてきた。少々専門的な話になるが、一つの固まりとして舶載されたこの種の香木には、微妙に違うそれぞれの香りの個性があり、この異同を鑑賞しながら香りの本質を吟味し、その絶対的な個性に命名するのである。江戸時代初期にも宮廷サロンを中心に多くの木が名前を与えられた。後水尾天皇・東福門院・後西院と多くの香木に名前を残している。例えば東福門院により付名された「青葉」という木が伝来している。もしこの木をいま薫くことが許されるならば、その香りに対して「青葉」と付名した故院の感性に想いを馳せる楽しみが生まれてくるのだ。香りは、簡単に時空を越えてしまう。

 いよいよ21世紀になり、香りがとても注目を浴びている。日常生活の中で、肩肘を張らずに気軽に香りを取り入れる世代が増えている。多くの場面で、暮らしのリズムとして使いこなされつつあるようだ。この現代の香りの潮流は、本当の意味でこれからの生活文化として定着するのだろうか。物理的な存在として香りを見つめ続ける限り、鼻先で感じる匂いとして取り扱われて終わってしまう。好き嫌いや強弱・印象や価格などで判断されることなく、もっと本質的な存在感を見つめない限り、本来の意味で香りと共に生きる智恵は理解されないのではないだろうか。香りという具体的な存在の後に広がる抽象的な余韻、これこそが大切なのだ。香りもその存在においては単なるハードでしかない。時空を越えるような香らせ方ができるかどうか、私たちのソフト力にのみかかっている。

筆者
畑 正高(香老舗 松栄堂 社長)

千年の都に生まれ育ち、薫香という伝統文化を生業にして、日頃考えることや学んだことを折に触れ書きつづっています。この国に暮らすことの素晴らしさ、世界の中に生かされていることのありがたさ…お気付きのことがありましたら、お聞かせください。