1996年9月アーカイブ

「かおり風景」第11回掲載/平成8年

 船は、目的を決めて航海を始めます。いったん出航しますと、可能な限りの情報を集めて危険を回避します。でも、少々の波は挑戦的に覚悟して、一心に目的地を目指します。乗組員個人の都合によりスケジュールを変えたりはしません。また、目的地をどこにしようかなどと全員に訊ねてくれたりもしません。乗組員全員の相互信頼が基本にあって経験豊かな船長のもと少しでも穏やかな航海を願って毎日をこなすのです。

 船に乗るからといってユニホームは常にセーラー服だなどと勘違いしてはいけません。料理人は白衣を着て仲間の健康管理を考えます。限られた素材で、毎日の食卓がマンネリ化しないように工夫をし、揺れるキッチンの奥からみんなの元気な笑顔と笑い声を楽しみ、暖かな料理に汗をかくのです。機関室では油にまみれてエンジンの音に耳を澄ましていなくてはいけません。セーラー服の襟は機械に巻き込まれたりしてかえって危険です。つなぎの作業服がやはり良いのです。外の天気など判りっこありません。航海を続ける間、毎日のトランペット磨きだって大切な仕事です。潮風にさらされて曇りを帯びてしまったら、目的の港に着いたときに舳先で吹けないじゃないですか。その港に停泊している間中「惨めなペットの船乗りさん」と仲間みんなが卑屈な思いを強いられます。港町で裏通りしか歩けないんですよ。やはり、朝日にキラキラと輝くトランペットが旅の疲れを一度に吹き飛ばしてくれるのです。一緒の船に乗っているからといって、常にみんなが同じ時間帯に仕事をするのではないのです。大勢の仲間が疲れを癒して寝静まっているとき、真っ暗な艦橋に立ってレーダーの明かりやモールス信号の音に集中しているのも、一人の船乗りなのです。
 港についてひとときの休暇・自分一人の大切な時間。真水のシャワー・故郷からの手紙・新鮮な野菜や果物・夜の酒場......時間を惜しむようにして次の航海に備えます。出航の時間は決まっています。この港町にもう少し...と思った瞬間、船は待たずに出航します。「ちょっと待ってよ!」などという甘えはあり得ないのです。急に予定を早めて出航したり、船乗りならみんなどこかに緊張感を維持しています。理由は、天気の様子一つなのです。

 さあ、君は船に乗るのか?どんな船に乗るのか?君が選び、君から名乗りを上げることが先決なのだ!!船が君を乗せてくれるのではないんだ。この船に乗りたいとの思いを熱く意志表示する若人の中へ船はタラップをおろし、必要かつ許される範囲の数だけ迎え入れてくれる。
 ここ数年、就職活動をする学生たちに、私はこのように呼びかけています。全員が全員、キョトンとしていて「このオジさん、何の話、したはんのかな.........」とビックリしています。ふと見上げてくれた焦点の定まらない目に、少しづつ少しづつ社会の風を吹き込んでいくのは、私にとって、とても楽しい時間なのです。

 受験戦争をそれなりに乗り越えて、現代日本流の学生生活を終えようとしている世代が、何か大きな勘違いをしているように思えてなりません。もっとしつこく言わせてもらいましょう。君たちは既に船に乗っているのです!

※発表年代順

筆者
畑 正高(香老舗 松栄堂 社長)

千年の都に生まれ育ち、薫香という伝統文化を生業にして、日頃考えることや学んだことを折に触れ書きつづっています。この国に暮らすことの素晴らしさ、世界の中に生かされていることのありがたさ…お気付きのことがありましたら、お聞かせください。