香・大賞 kaori taisho

第26回「香・大賞」

金賞

『 ゴー・フォー・ブローク 』
田巻 衛 48歳 学習塾経営

 8年前の12月。ホノルルマラソンの翌日、私と家内はダイヤモンドヘッド付近まで散策に出かけた。宴の後の静けさか、熱い応援の名残など微塵も感じさせないほどコース付近の家々は日常の時間の中に収斂(しゅうれん)されていた。
 とある民家の前、日系人と思われる老女が日陰に椅子を置いて腰掛けていた。日焼けした顔に深い皺が刻まれていた。小柄だった。
 目が合ったので
「ハイ!」
と私。
「マラソン、ハシッタノ? エライネ!」
と老女。名前を尋ねたら
「ヒロ」
と答えた。日系三世ということだ。ヒロが日本語で話してくれたので、私たちは幾つかの会話を交わした。
 きりのよいところで私たちは別れの言葉を告げたが、ヒロは私たちをガーデンに招(しょう)じ入れ、もう少しだけ話していかないかと言う。特に急ぐ理由もないので、ガーデンのベンチで、冷たいティーをふるまってもらった。その時だった。私と家内は顔を見合わせた。家の中から、なんとも懐かしい匂いが漂ってきた。いや、日本人なら十分に知っている匂いなのだが、異国の陽光の中だったので懐かしいと感じたのだろう。線香の匂いだった。私たちが、意外そうな顔をしていると、
「オトウサン、『ゴー・フォー・ブローク』ネ」
と、ヒロは笑顔を崩さずに言った。深い笑顔だった。
 思えば一昨日は12月7日。ヒロのお父さんは日系人でありながらアメリカ軍の一員として戦った四四二連隊戦闘団に属していたという。米国内で差別を受け、自分たち家族がアメリカ人であることを証明するために同胞と銃を交えなければならなかったという悲劇。
 『ゴー・フォー・ブローク(当たって砕けろ)』は、その連隊の合言葉だ。私は、線香の匂いをかぐまで一昨日が真珠湾攻撃の日だとは気づかなかった不明に恥じた。ヒロは、ホノルルマラソンの時期を心待ちにし、この時期は線香を焚いて日本人を迎えるという。ヒロたち日系人とともに、私たちも心の戦後を終わらせてはいけないのだと思った。