香・大賞 kaori taisho

第25回「香・大賞」

銀賞

『 筑前煮 』
徳山 容子 50歳 主婦 山梨県

 夕飯に筑前煮をつくる。
 嫁入り前に母に仕込まれた筑前煮は、数少ない私の自慢料理のひとつだった。
 冷蔵庫から野菜を取り出し、具材の下拵えを始める。炊飯器から吹き上がる蒸気が、メトロノームのように調理のリズムを刻んだ。
 不意に、昼間、友人のユキ子さんから聞いた話を思い出す。
 ユキ子さんの娘さんは、先日までお産のため里帰りをしていた。赤ちゃんは無事に生まれ、産後の休養も十分に取って、5日ほど前に娘さんは嫁ぎ先に戻ったのだそうだ。
「お姑さんから電話があったのよ。『嫁と孫がお世話になりました』って。昨日になってコーヒーの詰め合わせなんかも届くし。当たり前のことなのかもしれないけど、なんか悲しくなっちゃった。もう、うちの子じゃないんだ、って改めて思い知らされたみたいで」
 お姑さんに悪意はない。ごく常識的な方法で感謝の意を表しただけだ。それはユキ子さんにもわかっている。でも、彼女は傷ついた。
 鶏肉と野菜を鍋に入れて炒める。全体に油が回ったら、調味料と水を加えて煮込む。
 ユキ子さんのやりきれない気持ちは、私にも何となくわかった。私は自分の母に同じような思いをさせてしまったことがある。
 結婚して一ヵ月が経った頃のことだ。父の誕生日だったその日、私は夫に了解を得て実家に一泊した。すると翌日、夫の母親が私の実家に電話をしたのだ。
「うちの容子がお世話になりました」
 母は電話を切ったあと、涙をぬぐっていたと父から聞かされた。
 鍋の蓋がカタカタと踊り始める。筑前煮の匂いが、家中に広がっていた。
 ほらね。
 大丈夫、ちゃんとここにある。親子の証が、ここにある。戸籍上は他人になっても、私の作る筑前煮の匂いは母のそれと同じ匂いだ。
 久しぶりに母に電話してみようと思った。