香・大賞 kaori taisho

第24回「香・大賞」

銀賞

『 決意の香 』
辻野 涼子 22歳 家事手伝い 東京都

 引き戸を開けると夏でもしんと涼しい空気が私を包む。そしてあの匂い。古い木造の壁や床のそこここに染み付いたタレと炭の匂い。自宅と扉一枚で仕切られているこの小さな店は、5年前に他界した祖父が30年間鰻屋を営んでいた場所だ。口が悪くて短気な祖父だったけれど、同じ商店街の人にはとても愛されていた。油で黒く汚れた壁にはその証拠の品がたくさん飾ってある。旅行先からの絵はがきや折り紙で作ったカニの親子まで様々だ。 汚れた壁の一番目立つ所に油まみれになった写真が1枚しぶとく張り付いている。 私は見慣れたその写真をそっと手にとった。
 阪神大震災で商店街の他の店の多くが倒壊したり火事にあった時、祖父は一日も早く店を開けたいと言って駆けつけた母を困らせた。
「鰻どころじゃないでしょ!」
と怒鳴った母に、祖父はその3倍くらいの声で怒鳴り返した。
「こんな時やからいつもここにある匂いが必要なんや! わしの鰻の匂いがここらの人みんなを安心させるんや!」
 結局祖父は震災の一週間後には店を再開させた。顔見知りのお客さんが次々と買いに来て、おいしいおいしいと店先で食べる姿を、祖父は寒い中何時間も立ちっぱなしで鰻を焼き続けながらこれまでにないほど嬉しそうに見つめていた。夜になりいつものように最後の一本を私に渡しながら祖父は感慨深げに言った。
「高いもんもおいしいもんもいっぱいあるけど、ほんまに大変なことが起こった時に人が懐かしいと思えるもんて限られてるんや。おじいの鰻もそのひとつ。匂いだけでご飯何杯も食べられるもんて他にないやろ?」
 強気な一言にうなずく私を踏み台に乗せ、店の外に出た祖父は使い捨てカメラで写真を1枚撮った。
「おじいの決意表明や」
 べたつく写真には幼い私が小さな明かりの下、祖父の居場所に立つ姿が写されている。震災後8年間、揺るがなかった祖父の決意。
 私は写真を元の場所に貼り付けた。この冬ここが取り壊される時まで、祖父の決意もここにあるはずだ。