香・大賞 kaori taisho

第23回「香・大賞」

銀賞

『 黒いジャケット 』
山田 千晴 46歳 ロシア語通訳者 埼玉県

 8月のモスクワは、もう秋であった。夕方、映画館から出ると、寒がる私に、マクシムは自分のジャケットをさっと脱いで着せてくれた。
「僕は寒くないから、それを着て帰るといいよ」
と何ともロシア男らしい心遣いだった。マクシムは私が留学していた大学の同級生で、当時はまだ、ただの友人に過ぎなかった。ずっと昔のロシアでの話である。
 マクシムは、大男であった。彼のジャケットは、私のワンピースほどの丈があり、私の両手はすっぽりと隠れてしまった。二人は、それを見て、大声で笑った。
 マクシムのジャケットを着て、メトロに乗った時、何とも言えないなつかしさに包まれたことを覚えている。不思議な感覚だった。ジャケットは黒いジーンズ地で、何やら清々しい匂いがした。それは、紛れもなくさっきまで一緒にいたマクシムの匂いであった。
 何気なくポケットに手を入れると、紙が手に触れた。出してみると、その紙には、ゴチャゴチャ文字が書かれている。それが日本語であることを理解するのにしばし時間がかかった。日本語をロシア文字で表記してあったのである。よく見ると「愛しています」などという愛の表現集ではないか! 私は驚き、そして少しおかしくなった。マクシムが日本語を習っているわけがない。何ゆえに彼は、日本語のそんな表現をメモしていたのか当時の私には知る由もなかったが、無骨な彼には不似合いな表現集だったことは確かだ。
 次の日、私はそのメモの件は気がつかなかったふりをして、マクシムにお礼を言い、ジャケットを返した。
 ジャケットを借りた数ヶ月後、マクシムと私は恋人同士になった。彼の愛の告白は、何と日本語で、しかもあのメモ通りの言葉であった。メモの秘密を知っていた私は、笑おうとしたのに、マクシムの一途さに思わず泣いてしまった。次の瞬間、私はマクシムのあのなつかしい匂いに抱き締められていた。