香・大賞 kaori taisho

第34回「香・大賞」

奨励賞

『 聞こえないフリ 』
山内 夏美(やまうち なつみ) 21歳 大学生 神奈川県

 日々を忙しくしていると、仏壇に手を合わせて、線香を立てるということを忘れてしまいがちだ。私の家の仏壇は、1階の和室にある。その部屋は、以前、おじいちゃんのアトリエだった。和室には、今でも、画家であったおじいちゃんが描いた絵画が沢山置かれていて、油絵具の匂いが染みついている。
 幼い頃に、おじいちゃんに、小さなキャンバスを手渡されて、油絵を描かせて貰ったことがある。その時は、猫の絵を描いたが、毛並みを描きこむことはできなくて、猫の形に絵の具を塗った、という感じだった。
 「できたよ!」
と、おじいちゃんに見せると、おじいちゃんは、黙って受け取って、なんと、私の猫の絵に、筆を重ねて、細かく描きこみ始めた。大人が、そんなことをするなんて、信じられなかった。怒った私は、それからよく、おじいちゃんの声だけ〝聞こえないフリ〟をしていた。
 私の〝聞こえないフリ〟は、なかなかの名演技だったらしく、しつこく回数を重ねるごとに
「本当に聞こえないのか?」
と、おじいちゃんをうろたえさせた。くだらない仕返しは、成功していた。
 おじいちゃんが亡くなった時、棺に入った姿を見て
「おじいちゃんって、イケメンだったんだな」
と思うくらいに、それまで、ちゃんと、顔を見なくなっていたことに気がついた。〝聞こえないフリ〟をし過ぎてしまったことを、ひっそりと反省した。
 仏壇に、手を合わせることは、おじいちゃんに、呼びかけるということだ。線香を立てると、油絵具の匂いが染みついた部屋に、新しい匂いが広がっていく。呼びかけても、返事が返ってこないから、まるで、私が〝聞こえないフリ〟をされているような気分になる。時々忘れてしまうけれど、こうやって、線香を立てることで、今度は、私が、おじいちゃんの残した油絵具の匂いに、線香の匂いを重ねてやろう、という仕返しを思いついた。