香・大賞 kaori taisho

第33回「香・大賞」

審査員特別賞

『 嗅覚を磨け 』
敦賀 敏(つるが さとし) 81歳 団体役員 埼玉県

 鰻屋(うなぎや)で焼き上がるのを待つ間に60年以上にもなる学生の頃のことを思い出した。法学概論の若い助教授が我々学生に問い掛けたのだ。
 「男が鰻屋の店頭で蒲焼(かばやき)の匂(にお)いを嗅(か)ぎながら弁当を使った。これ窃盗罪になるか?!」
 苦笑が渦巻いた。彼はこんな謎(なぞ)なぞめいた問題を出しては笑いを誘った。が、固い法律の解釈をやさしく解説してくれる点で役立った。
 「罪にはならない─だよね。簡単な問題だけれど、大切なのはその理由(わけ)なんだが……」と学生達を見詰めた。答を出すことで理由を考えさせた。すかさず反応の手が上がった。
 「匂いは勝手に放出されているから……」の声にうなずいた彼は「蒲焼の匂いは全く管理されていないよね。じゃあ、すれ違った女性からの香水の香りは?」と再び訊(き)いた。
 「当然、無罪‼」の声に「正解‼」と応じた上で「香水はビン詰めで管理が可能。蒲焼の匂いとの違いは管理の点だね。つまり管理されていて価値有りとされているものを無断で私した場合は窃盗罪が成立」と強調した。
 ところで……と一拍(ぱく)置いた助教授は続けた。
 「人間を含めた動物が有している五つの機能(五感)のうち一番重要なのは?」「視覚‼」の声に「では、その視覚を封じるために目をつむってみよう。頼りになるのは?……」
 沈黙を続ける一同に対して言った。「名犬ラッシーや忠犬八公物語を思い出すまでもなく嗅覚だよね。生物学上での嗅覚は動物の生命維持の最大のポイントだそうだ。ならば人間も嗅覚を磨かねばならないよね……」
 すかさず出た「嗅覚と法律との関係は?」の問いに助教授はうなずいて答えた。
 「動物のように鋭い嗅覚を持たない人間にとっての法律とは、社会秩序維持に必要な“嗅覚の最大公約数”だね。悪臭を嗅ぎ分けるための」
 「お待ちどう‼」の声に我に返った。漂う蒲焼の匂いに目をつむった。81歳の身はどれだけ“嗅覚”を磨き得たか。それは不明ながら目前の蒲焼に歓喜(かんき)の声が出た。
「これは本物だ」──。