香・大賞 kaori taisho

第34回「香・大賞」

審査員特別賞

『 匂い見(においみ) 』
佐々木 望(ささき のぞみ) 29歳 陶芸工房スタッフ 東京都

 これはちょろちょろ、このくらい。
 これはちょろーっと、このくらい。
 私の母は擬音でごはんを作る。大さじや小さじは使わない。たしかにある「ちょろちょろ」と「ちょろーっと」の違いが、母の味を決めている。
 我が家の夕飯は肉と魚が1日置き、副菜2品、お味噌汁と炊きたてのお米、そしてお漬物が並ぶ。それを家族の帰宅時間にあわせて、できたて揚げたて焼きたてで用意してくれる。私たちがおいしい瞬間を逃さずにいられるのは、すべて母のおかげだ。
 ごはんには「できるまでの匂い」というものがある。と、いうことを私は母から学んだ。煮物を作るとき、調味料を入れるごとに匂いはころころ変化する。生の野菜と茹でた野菜では香りが違う。しいたけの出汁はうっとりする香りで、昆布の出汁はふわんとした香りがする。
 母はいつも一から手作りだ。だから私は子供の頃から、どんな匂いを経て料理が完成するのかを知っていた。きっと、買ったお惣菜ばかりの食卓だったなら、そんなことを知らずに育ってしまったと思う。
 そんな母に、作ることも食べることも満足にできない日が来るなんて思いもしなかった。母は味覚障害になった。抗がん剤の副作用だ。当の本人は、ごはんがうまく作れないこと、家族とおいしい瞬間を共有できないことが一番辛いと言っている。
 私が代わりにごはんを作ることも多くなり、母の味になるよう擬音レシピで作ってみるが、なかなかうまくいかない。
 これはちょろちょろ、このくらい?
 これはちょろーっと、だったっけ。
「匂いはおいしい匂いしてるよ。味見はできひんから匂い見やけど」
 私の横で母が笑ってそう言った。そのあと「匂いはちゃんとわかるんやけどな」と言った笑顔が悲しかった。
 母と「おいしい」を共有するために、ごはんができるまでの匂いとできたての匂いをたくさん嗅がせてあげよう。匂い見だっていいじゃないか。今はそれしかできなくても、母に味覚がもどる日は必ず来るのだから。