香・大賞 kaori taisho

第32回「香・大賞」

審査員特別賞

『 父と白い梅 』
永松 あき子(ながまつ あきこ) 59歳 主婦 東京都

 父からは異様な匂いがした。
 55歳、煙草も吸うしお酒もよく飲む。以前から加齢臭は感じていたけれど、その時は、それまでと全く違ういやな匂いだった。
 3月1日。私は春休みで宇都宮市の実家に帰省したばかりで、そこへ出張で水戸に一泊した父が帰って来た。顔を見るのは久しぶりだ。午後4時頃だったが、これから役員会があるので、また出かけると言う。母も役員の一人で、先に出社して不在だった。
 私は反抗的な娘だった。高校時代はほとんど口もきかず、大学進学のため上京してからは、多忙な父とは顔を合わせるのさえ稀だった。それでも、大学3年にもなるとそこそこ大人になって、市内で従業員30人ほど抱える設計事務所を経営していた父の苦労も、少しは理解できるようになっていた。
 「たいへんだね」
私は、父の大ぶりの益子焼の湯呑みにお茶を入れて渡した。
「梅を見たくて偕楽園に寄ってきた。少し早かったけどいい匂いだった」
一息ついたのか、父が言った。私の目に、三分咲きの白くて丸い小さな梅がたくさんうかんだ。
 ほどなく父は出かけて行き、そして役員会の場で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。くも膜下出血だった。母と、ずっと苦楽を共にしてきた所員たちに囲まれていたのが、少しもの慰めだった。
 あの異様な匂いは、父の体で起きていた、とんでもない事態の現れだったのだ。
 葬儀の後、私の反抗期を知っていた秘書の人が声をかけてくれた。
「お嬢さんがお茶をいれてくれたって、嬉しそうに話してましたよ」
親孝行と言うには、あまりにささいすぎた。
 父は、あの嫌な匂いではなく、梅の香りを私に残していってくれた。父を想う時、目の中で、いつも白くて丸い梅が咲く。