香・大賞 kaori taisho

第34回「香・大賞」

審査員特別賞

『 綿毛(わたげ)の時の香り 』
本橋(もとはし)デミル 瞳(ひとみ) 34歳 絵師(個人事業主) 東京都

 母。
 朝から晩まで忙しなく「母」を続ける母が、ふと心休まるのだろう。昼下がり、父や弟のワイシャツやら、小学生のわたしや妹のハンカチなんかを、丁寧に丁寧に伸ばして、アイロンをシューっとあてていく、そのひとときに。
 洗濯物の山に宿った陽光の喜び──カンタータの鳴る、やわらかな水彩の光のヴェールが色とりどりに紡ぎ出されてゆく。太陽から約8分間、1億5千万キロメートルほどの真空と大気圏の厚みを横切って、やっと届けられた光の贈り物たちは、嬉々として洗濯物と戯れる。まるでそんな長旅などなかったかのように。
 空間を彩るレース・カーテンの慈愛──微細な屈折が霧のようにまばゆくきらめき、キラキラした綿毛となって遊んでゆく。綿毛か、おそらく赤子の柔肌にも似たそれに包まれると、そこは永遠の豊かな安らぎ空間。優しさが鼻腔をくすぐり、時空をこえる綿毛ふわり、空へ、宇宙へ舞ってゆく。そよ風は「お邪魔しますよ」と、暖簾をあげ会釈しながら店に入る客のよう。綿毛を揺らし、溶けてゆく。
 フゴッ、フゴッ、シュー… …。洗濯物の上を蒸気機関車となったアイロンが無尽に走る。ワイシャツのイガイガした山肌は、滑らかな新雪の表面となってつらつらとあらわれ、歓喜の凝縮が新たな山となってゆく。「襟元、袖先は入念に」、職人の真剣さといつくしみそのものとなった母の横顔は、とても穏やかで、それでいて、話しかけたらこの「時」があっという間に壊れてしまうのではないか、という儚さも帯びていた。
 その空間に満ちていた「綿毛の時の香り」を今のわたしも、まとっているのだろうか。母との時を想い、旦那のワイシャツにアイロンをかけるわたしは、まだ「母」となってはいない。ただ、嬉しそうに袖を通して「アリガト、オクサン!」というあの人の無邪気な笑顔が浮かぶ。母もまた、父や弟や妹や、わたしの喜ぶ姿が思い浮かんでいたのか。わたしもこうして「母」たる母と、私の中の「母」の香りを知ってゆく。