香・大賞 kaori taisho

第33回「香・大賞」

審査員特別賞

『 父の海 』
黒河(くろかわ) みなと 84歳 広島県

 昭和22年3月。午前8時過ぎ。
 場所は当時の国鉄宮津線、丹後神野駅。
 13歳の私はぽつんと改札口に立っていた。
 長い間、ジャワで司政官として勤務し、敗戦後は消息不明だった父から、不意に電報がきた。
 アスカエルチチ──
 家中が大騒ぎになった。
 ──お父さんが帰ってくる!
 元陸軍軍人だった父はずっと不在の人だったから、父の顔はほとんど記憶にない。私が迎えに出たのは母の次で、何時の列車かわからないから、一里の道を歩いては交代していたのである。
 痩せて、背の高い、目ばかりが鋭い男の人が列車から降りてきたとき、私は迷わず「お父さん!」と呼んでいた。「父」と私はそれきり黙って、久美浜湾沿いの道を黙々と歩いた。
 父不在の私たちの家は、どん底暮らしなのに毎日なにかしら、笑いに満ちていた。母は太陽のようだった。その母が涙にくれた。
 「お父さんは人が変わってしまった」──
 引揚者として帰ってきた父は荒れに荒れ、私たち子どもは父から逃げようとばかりしていた。当時、シベリアから帰ってきたという村の男が発狂したと聞いて、私は父の身の上にも起こるかもしれない悲劇を想像しては怯えていた。
 ある朝のこと、私は父につかまってしまった。塩を炊くから外海を見にいく、ついてこい、と言う。しかたなくしぶしぶ父の後ろについていった。外海はすぐそこである。
 早春の日本海はしぶきをあげて砂浜を叩きつけていた。水平線の彼方に1本の煙突みたいな竜巻が立ち上がっていた。
 ふと、父を見てはっとした。
 父の頬にひと筋、涙がこぼれているではないか。凝然と動けなくなってしまった私は、父がこう呟くのを聞いた。
 「これが故郷の海だ。いい香りだ……」