香・大賞 kaori taisho

第33回「香・大賞」

日本経済新聞社賞

『 警鐘 』
阿久津 充圭(あくつ みか) 29歳 会社員 兵庫県

 ふわり。
 甘くて、それでいて柔らかな香りが、鼻をくすぐった。見上げると、闇の中でひっそりと咲く、黄色い花。ロウバイだった。
 その日は一段と寒く、寒さから身を守るように歩いていた時だった。唐突に届いたその香りに、私は、弾かれたように顔をあげた。
 香りがするというより、香りに包まれている、という方が近い。私は、寒さも忘れて、しばしその香りに身を委ねていた。
 それからの道のりは、どこか、ふわふわした心持ちだった。いつもと同じ毎日で、いつもと同じ道を通ってきたのに、全く違う場所に行ったみたいだ。
 あの花は、いつから咲いていたのだろう。あれほどの香気なら、気付きそうなものだが。そう思ったとたん、先ほどの幸福感が嘘のように、背中のあたりがすっと熱を失った。
 花はいくつも咲いていた。開花したて、というわけではないだろう。そうなると、ほぼ毎日同じ道を通っていたのに、全く気付かなかったことになる。
 沢山の「やるべきこと」に追われ、わずかに空いた時間は、液晶の画面を眺める。頭は、自分のことを考えるだけで精一杯。目に映ったものすら、意識まで届くことなく、視界から姿を消していく……。
 振り返った私の世界は、周囲への意識の欠如が、浮き彫りになっていた。
 それが自然に対してだけならば、大きな問題はないかもしれない。けれど、人に対しても同様であったなら。このままでは、いつか、もっと大切なものを失ってしまうだろう。
 あの柔らかくも強かな香りは、自然からの警鐘だったのかもしれない。
 次の日も寒かった。けれど、冷たい風を頬に受けながら、あちこち見まわして歩いた。電車の中でも、スマホは出していない。目に映るものに、あれこれと思いをはせながら、春の訪れを待つことにした。