香・大賞 kaori taisho

第32回「香・大賞」

日本経済新聞社賞

『 草の香 』
小林 園枝(こばやし そのえ) 46歳 会社員 東京都

 主が去って、庭が荒れた。丹精込められていた花は枯れ、雑草が生い茂る。ポストに造園業者からのチラシが投げ込まれるようになって、私は重い腰を上げた。地面から顔を出す草は名を確かめるまでも無く全て抜き、枝木については、容赦なく切り落とす。結果ずいぶんとサッパリしたのだが、今度はあまりに荒涼とした庭に、ポストには売却相談のチラシが投げ込まれるようになってしまった。
 主の手によって四季折々の表情を見せた庭を思い返せば、何とかしたいと思うものの、二の足を踏むのは、私には花を育てる才能が無いからだ。見て綺麗だとは思うけれど、世話をしようとまでは思わない。むしろ私が手を出すと枯れる。恐らく関心が無いのだろう。それが証拠に、私には花の香がわからない。
 子どもの頃から鼻は良い方で、今でも、メダカの水槽の匂いから水質を判断する程度には、嗅覚に自信を持っている。ところが花の香となると、ぼんやりとしていて掴みどころがない。咲く花を見て「良い香ね」と言う人に、私はいつも曖昧に笑ってみせたものだ。
 ともあれ、問題は空っぽの庭だ。花が無理なら野菜はどうだろう。そして私が選んだ苗は、ナスが二つ、ミニトマトが二つ、トウモロコシが三つだった。整枝や追肥、水やりなど、アレコレの細かい約束ごとはあったが、そういうものは気にしない。モットーは「とりあえず緑」だ。熱心とは言いがたく、それでも早起きして水やりをするうちに、庭の緑に愛着のようなものが湧いてきた。
 放任主義で育てた結果、ミニトマトとナスとトウモロコシ、それぞれの茎が絡まりあい、全体が何やらドーム状になってしまった。枝葉はすこぶる元気だが、これでは実には栄養がいかないだろう。何気なく緑の奥を覗くと、艶やかな赤い実があるではないか。やぶ蚊に辟易しながらしゃがみこんだ私を、強い草の香が、四方から押し包んだ。息苦しくなるほどに濃い、緑の匂いだった。