香・大賞 kaori taisho

第34回「香・大賞」

佳作

『 T君のおばあちゃん 』
松本 俊彦(まつもと としひこ) 54歳 会社員 京都府

 焼いていない食パンの薄い匂いをかぐと、今でも小学5年の1学期のことを思い出す。
 今もそうなのだろうか。私が小学生の頃は、誰かが学校を休むと、近所の者が給食の食パン2枚をそのうちに持って行ったものだ。T君は、1学期の初日から学校に来なかった。たまたまT君の家の前を通って帰る私が、食パンを届ける役になった。T君の家に行くと、T君のおばあちゃんが出てきた。背が低くて背中が丸くて眼鏡をかけた、昔話に出てくるようなおばあちゃんだった。声もしゃべり方も、昔話のイメージだった。おばあちゃんに挨拶し、食パンを渡して帰った。
 T君は、2日目も3日目も学校に来なかった。先生によると、T君は溶連菌感染症という病気で、すぐに動ける状態ではないということだった。私は、毎日学校の帰りにT君の家に寄った。応対するのは、必ずおばあちゃんだった。用事は、食パンを届けるだけではなかった。宿題のプリントを渡したり、翌日に持って行かなければならないものを伝えたりもあった。私は、翌日もT君はおそらく学校には来ないだろうなあと思いながらも、それらをすべて伝えた。おばあちゃんも、おそらく同じ思いだったと思うが、私が言うことをすべてノートに書いてくれた。おばあちゃんは、私の名前は聞いたが、それ以上のことは聞かなかった。私も、T君の具合を聞いたりすることはなく、ただ淡々と食パンを渡し、学校からの連絡を伝えるだけだった。
 1週間たっても2週間たっても、T君は学校に来なかった。私はいい加減面倒になってきた。食パンと連絡メモを郵便受けに放り込んで帰ろうかとも思った。しかし、それを見たおばあちゃんの顔を想像すると、とてもそれはできなかった。
 7月に入って、ようやくT君が学校に来た。私はその時、初めてT君の顔を知った。おばあちゃんによく似た、優しそうな昔話顔だった。すぐにしゃべり、すぐに友達になった。