香・大賞 kaori taisho

第32回「香・大賞」

佳作

『 扉の前の世界 』
後藤(ごとう) はじめ 28歳 図書館職員 神奈川県

 病院の匂い。保健室の匂い。歯医者の匂い。消毒液の化学的な香り。この匂いを嗅ぐと、もう20年近く前になるにも関わらず、未だにとある病棟前の風景を思い出すのだ。
 当時、私の妹は病気で数ヶ月ほど某大学病院の小児病棟に入院していた。母は毎日のように面会へ通っていたし、土日で学校が休みの日は私もそれに同行していた。しかし、小児病棟というのは感染予防のため15歳以下は立入禁止となっている。その頃小学生だった私も、もちろん入ることはできなかった。
 小児病棟の中をガラス戸越しに見やりながら、母と帰るまでの2〜3時間、病棟前の廊下で過ごす。本を読んで、携帯ゲームをして、ときどき同じように廊下で待つ子たちと遊ぶ。やることはいっぱいあった。それなのに、なんて子どものころの時間というものは長いのだろう。どれだけ遊んだって、自分が感じているよりも時間は進まない。
 帰る時間までまだだいぶある。分かっている。けれど、もう母が出て来やしないかと中を見る。入り口にまだ人影はない。笑い声が聞こえる。ふり返る。けれど、やっぱりまだまだ出てくる気配はない。
 たまに医師や看護師が出入りするたびに中から消毒液の濃い匂いが吹き抜けていく。ガラス戸を挟んだすぐ向こうは、私にはまるで別世界のようだった。私は一人、その世界に入れずにとり残されたような気持ちでそこにいた。ガラス戸の前のその場所だけが、小さな私の世界だった。寂しさ、羨望、孤独……。いったいあのとき感じた気持ちは何という名前だったのか。
 あれから年月は経ったが、病院特有の消毒液の香りを嗅ぐ度にあのときの景色がふと過ぎる。ガラス戸の手前にあった小さな世界と、その先にある別の世界への入り口。過ぎる景色に今でも切なさを覚えるのは、あの日の幼い私がその匂いの中から覗いているからかもしれない。