香・大賞 kaori taisho

第34回「香・大賞」

佳作

『 不思議な力 』
李 景芳(り けいほう) 62歳 教師 大阪府

 2018年6月18日の朝、いつもと変わらぬ静かな朝だった。出かける準備をしていた私は、突然これまで経験したことがない大きな揺れを感じた。と思った瞬間、家中の家具や本棚が倒れ、食器や本、ありとあらゆるものが家中に散乱した。激しい揺れが一段落しても、あまりの無惨な光景に頭の中は真っ白、ただただ震えながら一変した室内の光景を、私はぼうっと眺めているだけだった。
 しばらくすると、携帯に緊急時の災害メールが入ってきた。外では消防車や救急車のサイレンが響いている。大阪北部地震、我が家はその震源地のほぼ真上にあった。
 どうしていいか分からない。私は何も出来ず、ただ茫然としていた。時間がいつもより静かに、ゆっくりと流れていく気がする。足元に目をやると、陶器の破片が散らばっている中に、あのお気に入りのお香立てが転がっているのが目に入った。
 私も夫もお香が好き、特に伽羅のお香が大好きだ。お香の箱をそのままタンスの中に入れておいて、ほのかに衣服に香りが移るのも好き。お香を焚いて、家中がお香の香りに包まれれば、それは我が家の至福の時だ。
 無意識に転がっていたライターを手にとった。いつものようにお香を焚くと、いつものあの香り。私の脳裏に昨日、一昨日までの、静かな日々が浮かんできた。不思議なことに、目の前の現実を受け止める冷静な気持ちが戻ってきた。まず今日行かなければならない勤め先の大学に連絡を入れる。やらなければならない事の順番が頭に浮かんできた。普段はただ好きだったお香に不思議な力を感じる。
 2週間の後、地震疲れから逃げ出したくて、夫と二人で奈良と滋賀に出かけた。気の向くまま、ぶらぶらと歩いていても、不思議と足が止まるのは「香り」のある場所。果物の香り、コーヒーの香り、草花の香り、そして青々しい樹々の香り……。
 小さな旅行から家に帰った私は、非常時の持ち出し用のリュックサックの中に、買ってきた小さなお香の箱をそっと入れた。