香・大賞 kaori taisho

第33回「香・大賞」

佳作

『 空気の匂い 』
加藤 順(かとう じゅん) 67歳 会社員 東京都

 妻が検査入院のため、家を出たのは5日前だ。「じゃあ行って来るね」とまるで買い物にでも出かけるような気軽さに、一瞬妻の行き先を忘れる。
「お酒飲みすぎないでよ、火の始末も」
 タクシーの窓越しに叫び続ける。
 一人になった開放感から、妻を忘れていたのは3日間だった。
 今までも、女友だちとの小旅行に度々家を空けた。
 殆どが2泊3日で、4日目の朝には食卓の上に新聞が乗っていた。
 しかし、4日目を過ぎても妻の姿はない。
 5日目の今日になって、昨日までの部屋に違和感を感じた。
 朝食を作り、掃除をし、洗濯をしてもまだその正体に気づかなかった。
 鬼のいぬ間にと、隠し持っていたたばこに火を付けようとした、その時だった。
 妻の匂いが無い。
 と同時に、そんな事に気付いた自分に驚く。知人に「空気みたいなやつで」と口にしたのは、つい先日の事だ。
 しかし、その空気には匂いがあった。
 そして、その匂いは5日もあれば消えてしまう匂いだった。
 その儚さが、逆に妻の存在を強く意識させた。この家に漂う2種類の空気のどちらか一方が欠けても、この家でない。そしてその空気は混じり合い、分かち合いながらも二人が長い時をかけ、育てて来たものだ。
 改めてそんな当たり前の事に気づく。
 今度からは、空気みたいなやつで、と言った後「でも匂いがあるんだよ」と付け足そう。何事もなく妻が帰って来ることを祈る。
 とりあえず、今から見舞いにでも行って、一足先に、妻の匂いだけでも持ち帰ろうか。