香・大賞 kaori taisho

第32回「香・大賞」

佳作

『 記憶 』
伊東 静雄(いとう しずお) 88歳 無職 静岡県

 小3の時の受持は村木静江先生であった。多くの担任教師の中で最も敬慕する恩師として今も夢に見、夢で話すことがある――。
 冬休みが終り3学期が始まると私の弁当は暫く餅の磯辺焼(いそべやき)3個となる。昼食時一斉に弁当箱を開けたとたん、教室内に醤油と海苔の香ばしい匂いがただよう。母にせがんで作ってもらう期間限定、私のスペシャル弁当だ。
 先生は昼食時、机間巡視を常としたが私のそばへ来ると、アラッという顔して言った。
「ま、いい匂い、おいしい? 伊東さん」
先生は男子も〈さん付け〉でよんでいた。私はハイと頷きながら頬張る。餅は真冬のこととてかなり固くなっているのだが、歯応えがあって、これはこれで賞味できるのである。
 帰宅後母に「先生が『餅弁当を先生も食べたいわ』って言ってた」と嘘をつくと翌朝の弁当箱に5個の餅が入っているではないか。2個は先生の分だという。サア弱った。恥ずかしいなァと思ったが「母から『先生へ』って。食べて下さい」とこっそり渡した。
「うわッ嬉しい! ありがとうってお母さんに伝えてネ」と押し戴く格好をした――。
 のちに村木先生は結婚され、旧満洲の日本人学校へ赴任した、と風の便りに聞いた。以来数十年先生の消息は途絶えた。
 我々の古稀を祝した催しの場で先生が隣県の介護施設で療養中との情報を得、早速胸をときめかせて面会にでかけたのだが……。
 そこに先生は――居た。「どなた?」と何度も問う。殆ど一分(いっぷん)おきに「貴方様は?」認知機能障害は明らか。胸は痛み言葉を失う。何回目かの「どなたですの?」の時、あの餅の一件を話すと、意外や先生の表情に一瞬の輝きが。「あぁ、餅弁当の伊東さんね」
 やった‼ あの香りが、あの匂いが60年余に及ぶ遥かな記憶を束の間甦らせたのだ。
 私は帰宅するなり倒れるようにドッとベッドにうつ伏した。妻が「どうしたの?」と案じる程、心身に異様な疲労がよどんでいた。