香・大賞 kaori taisho

第33回「香・大賞」

佳作

『 円形脱毛症 』
鈴木 純平(すずき じゅんぺい) 68歳 自由業 東京都

 故郷には、海がありません。
 わんぱく時代には、畑に1本だけあった梅の木に登り、遠くの山々を眺めることが大好きでした。
 私の秘密基地は、その梅の木でした。春の季節には、青空に舞うヒバリの声を聞き
「あんなに高く、ボクも飛び上がりたい」と、ヒバリを羨ましく思っていました。ヒバリが麦畑に空からまっすぐに下りるのを見ると、麦畑に走ります。ヒバリの巣を見つけるのです。夏には、隣町の花火大会を木に登って見たことも鮮明に覚えています。そして、一番好きなのは紅葉の頃、遠くに見える山々が色づいていく変化を、毎日眺めること。「面白いな」と、楽しんでいました。梅の木だけではなく、川遊びも、山登りも、いつも自然と一緒の良き思い出でした。草の匂い、花の匂い、土の匂い、すべての自然の匂いは、山々に囲まれた少年時代の思い出が詰まっています。
 ところが、海なし県に生まれた私が、円形脱毛症になるほど、驚いた香りがあります。小学生の高学年のときでした。家族で海にやってきたのです。
 電車を降りて、波の音が聞こえる海岸まで歩きました。途中、きれいに並んだ魚が、天日干しされていました。故郷では、さつま芋や切干大根を天日干しにするのは、暮らしの場面にたくさんありましたが、魚は初めてです。「この匂い」に震えました。「磯の香りというものか」と、海岸の浜に出るまでの間、ずっと不思議な気持ちになっていたのです。海の匂いなのだろうか、潮の匂いなのだろうか。そして、波が、繰り返し、繰り返し、寄せては引いていく光景を眺めて小学生の私は、全身で感動してしまったのです。わが家に帰ると、母親が私の頭に、円形脱毛症を見つけました。病院に行くと、問診の結果、医者は「潮の香りに感動した、それが原因だろう」との診断だったと、大人になってから、私は母親から聞かされました。