香・大賞 kaori taisho

第34回「香・大賞」

環境大臣賞

『 土 』
福下 愛美(ふくした あいみ) 37歳 会社員 滋賀県

 羽化する蝉をみつけるのは、必ずその道のどこかだった。
 私達の育った山奥の家は、山肌に沿って切り拓かれた、車が1台やっと通れるほどの坂道の頂上にある。小学生の夏、私と2歳離れた妹は、首からラジオ体操のカードをぶら下げて、その狭い道を毎朝歩いた。アスファルトから一歩外れると、朝日も届かない深い山が広がっている。
 入ったら戻れないかもしれない、という単純な恐怖が、 山と私達の間に見えない境界線を作り上げていた。
 それでも「境界線の向こうの世界」の香りは十分に感じられた。酸い香りのする黒い土が、暑い夏でも乾かずに湿り気を帯びている。わずかに混じる甘さは、落ち葉や木の実、小さな生き物たちが、土へ吸い込まれていく香りだと子どもながらに知っていた。そこには確かにいのちの巡りがあるということを、明るい「こちら側の世界」から、ささやかに、濃厚に感じとっていたのだ。
 境界線から道へ飛び出してくる枝葉にも、生き物の営みを見ることができた。仄暗い山と朝日の狭間で、柔らかな羽を透かせる小さな姿。蝉の羽化である。
 私と妹はその光景を、長く見続けることはしなかった。蝉は必死なのだから、気が散ってはまずいだろうと考えていた。そしてわずかな時間じっと見守り、これは何だか凄いことだという高揚感を胸に、ふたりで家まで一気に走りはじめるのだった。
 そんな幼い夏の朝を共に繰り返していた妹は、大人になり私より先に子を産んだ。初めて対面した甥をこわごわと抱いた時。私の脳裏には、瑞々しく光る柔らかく透明な蝉の羽と、その向こうから立ち昇る甘くて酸い土の気配が鮮やかに蘇った。
 ああ、知っている。これは大きく深い「向こうの世界」からやってきた、いのちの香りなのだと。