香・大賞 kaori taisho

第34回「香・大賞」

銀賞

『 病床のシトラス 』
花織(かおり) 30歳 自営業 香川県

 無菌室には季節がない。
 一昨年の春、私は悪性度の高い血液がんだと診断された。すぐにでも治療を開始しなければ命が危ういといわれ、問答無用で無菌室に隔離されてしまった。
 抗がん剤の投薬のたびに、胃袋が丸ごとひっくり返されるような吐き気と、焼かれるような痛みに苦しんだ。投薬が5回を超えるころには、声を上げることも出来なくなった。
 24時間、除菌のために回り続ける換気扇が、ツンとする消毒液の臭いをかき混ぜて、部屋中を満たし、外に運んでいく。代わりに、人工的なカラカラに乾燥した無臭の空気が、部屋に無遠慮に流し込まれた。治療中の患者には、ほんの少しの雑菌でも致命的な病につながるのだ。
 投薬が休みの日は、いつも母が病室のカーテン越しに見舞いに来てくれた。
 ある日母は、カーテンの裾に、ほんの少しだけ、シュッとスプレーを吹き付けた。
「シトラスっていうの。お薬が休みの期間は大丈夫。看護師さんにも許可は取ったから」
 母は、慣れないパソコンを繋ぎ、昼夜を問わずずっと私の病について調べ続けていた。柑橘の臭いは、がんを治療している患者が心地よいと感じる香りだと知り、病室に差し入れてくれたのだった。
 私はわずかに漂ってくる酸味のある香りを、肺いっぱいに吸い込んだ。瞼(まぶた)の裏に、自然と映像が浮かんでくる。抜けるような真っ青な空の下、生い茂る緑と、強い日差しに照らされる瑞々しい黄色、橙色の果実……。
 ふと、分厚いガラス越しに、嵌(は)め込み窓の外を見た。開けられないと初日に知ってからは、窓の外を見ることもほとんどなかったため、気が付かなかった。
 季節は夏を迎えようとしていた。
 「早く外に出て、本物を嗅ぎに行かなきゃね」
母は、そう言って笑った。